こんばんは、ばんりです。
これまで、誰かを許せない、憎いと感じたことはあるでしょうか。
逆に、なかなか許してもらえなかったという経験はあるでしょうか。
最近、中野信子さんが書かれた、『人は、なぜ他人を許せないか?』という興味深い本を読みました。面白かったので、是非読んでいただきたいのです。
正義中毒者
この本の中で、キーワードとなるのは「正義中毒」という言葉です。
詳細は本に書かれているので、大まかにしか書きませんが、なぜ他人を許せないのかというアンサーの一つとして、人は「正義中毒」だから。と書かれています。
どういうことなのか?
人は、個人あるいは自身が属している集団の持つ価値観こそ正しい、正義だと考え、その価値観に沿わないものを悪と認定し、非難の対象にするということです。
非常に面白いですよね。
僕自身の例で言うと。僕は少し前から食に気をつけるようになりまして。無添加やオーガニックの食材を食べるようになりました。それこそが、僕自身の体を健康に保つための基盤になると思ったからです。
そして、無添加やオーガニックの情報を探していると、同時にその考えを非難する声があります。
「添加物でも危険性がないと判断されているから使われているんだ」
「そんな考えを発信している奴らは金儲けを考えている」
「食品に危険があるなんて陰謀論だ」
など、様々。笑 正直、僕も一年以上前は、オーガニック?何それ?そんなん知らんし、勝手に言っとけ。側の人間でした。だから、このような非難を浴びせたいのはよくわかります。あくまで僕自身の経験の話ですが、結局、知らない情報で、今の自分の持つ価値観を崩したくないんですよね。自分が。自分たちが正しいから、そのほかのことは間違っている。と言いたい。
僕はこう言った非難の声を見ると、あぁ、知らないことばかりなんだろうな。情報を取らないなんてバカだなぁと思ってしまっていました。
でも。この本を読んで気づかされました。そうじゃない。結局僕も、自分自身が持つ知識、探してきた知識が正しいから、そのほかの人の意見を否定しようとしていたんですね。
自分自身に正義がある。そして、そのほかが悪だと感じるという他人を許せないという光景です。そして、この、自分たちこそが正しいから、お前たちは間違っている!という意見や非難を浴びせる時に、人は一種の快感を得るようです。その快感を何度も得ようとする。無意識のうちに求めてしまっているからこそ正義という大義名分に中毒状態になる、正義中毒者が世の中にはたくさんいるんだそうです。
隠れ正義中毒者
自分は正義中毒になっていると思い当たる人もいれば、いやいや、私はそんなことしませんよ。と感じている人もいるかもしれません。でも本当に、気がつかないだけで、正義中毒になっていることがあるんです。なぜなら、この情報社会では正義を執行する相手が、知人には止まらないからです。
もうね。良くも悪くも。情報が入手しやすすぎるんですよ。
本でも例に挙げられているもので言うと、芸能人の不倫。芸能人の不倫を見て、一体どれほど多くの人がその人たちを非難するでしょうか。法律的にも、倫理的にも、良いか悪いかといえば、良いこととは決して言えません。
ただ!ただですよ。それがあんたに何の関係があんねん。って話じゃないですか。なぜあれほどまでに騒ぎ立てるんでしょうか。
最近で言うと芸人さんの暴言ですか?あれは確かに言葉が悪いとしか言いようがありません。それを非難することで何がどう改善されるのでしょうか。当事者と直接の知り合いなのでしょうか。きっと違うと言う人が多いのではないでしょうか。
じゃあ何で非難するかと言うと、そうすることで自分の正義を確立し、リスクなしで快感を得られるからです。情報が溢れすぎているせいで、正義中毒になりやすくなっている。そして、その中毒者同士はお互いに正義を持っていることがあり、反発が生まれ、争いが生じる原因にもなる。正義とは善なのか悪なのか。全くもってわからなくなりますね笑 いや笑えんか。
だから、もう、いいんです。
だから、もう、いいんです。他人なんて気にしなければ良い。
って言うのは難しいですよね笑 人は他人がいるからこそ、自身と比べ、その違いを自己として確立する。
じゃあ人は結局許せないのか。と言うとそれもそうではない。僕自身も少し残念に思ったんですが、人を許さないと言う正義中毒に陥らないための明確で、画期的で、実践しやすい解決策というものはありません。
ただ、方法の一つとして、価値観を広げるように意識して行動するということが書かれています(もちろん、他にもいくつか本には書かれています)。
結局、僕たちは、一つの価値観を信じすぎる、鵜呑みにしすぎるから、考えが偏ってしまい正義中毒になってしまう。ならば、異なる価値観を取り入れることで、自分の中でどちら(あるいはどれ)を選ぶかという判断をする。
自分が選んだ道を信じるということは非常に大切なことだと僕は思います。そこでもし、ほかの選択肢になりうる価値観を、自身の中に有していたらどうなるでしょうか。非難。もしかしたらするかもしれません。笑
でも、ほかの選択をしていたら、自分もこんな風になっていたのかな。と、自分が選ばなかった未来を仮にではありますが見れるということに学びはないでしょうか。
人生は選択の連続です。自身の下す選択は、その時にその瞬間に起こります。それ以外を自分では経験できない。その経験できないはずの世界戦を他人を通して見れるんだから、そこは非難しないで、感謝でもしたら良いじゃないですか。そんな価値観もあるよな、でいいじゃないですか。
他者に危害を加えられたり、危害を加えられないように自分自身を守る手段を持っている必要があります。しかし、そのために相手に危害を与え出すと、それはもう正義中毒の始まりです。他者を否定し、快感に浸り、自己に陶酔する。他者の感じた不快感や、視野狭窄な考えは、自分自身に関係ないと思いますか?自分の首は自分で締めることになるかもしれません。
ここでいう、自分自身を守る手段として、知識をつけるということが有用だと僕は感じました。そして、その知識の一つとして、人が他人を許せない脳科学視点で書かれたメカニズムをこの本から取り入れるのがお手軽なのではないかと思います。
今日もここまで読んでいただきありがとうございます。
僕の表現力では、この本の魅力を伝えるにはまだまだ力不足だったと思います。
しかし、この、知識をつけ、考える。相手の思考にも考えを及ぼすというようなことは、本当に自由に生きるためには必要だと思います。僕自身もまだまだ勉強中ではありますが、自分の目の前に流れてくる情報が正しいと思うのは危険かもしれません。自分で情報を取りに行き、その情報の中から、自分で選択していく。偽物の情報に踊らされることは、有用とは言い難いです。ただ、偽物と思っているものの中に本物があるかもしれないし、本物と思っているものの中に偽物があるかもしれない。
偽物に対しての非難を浴びせ、快楽に酔いしれる時間があるなら、自己の中で考えを広げ、自分も、他者も包み込む、そんな心を育てることが、他人を許す方法ではないでしょうか。
それでは今日はこの辺で、おやすみなさい。
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